すぎたとおるのレキシよもやま話

情報戦! 山崎の戦い

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羽柴秀吉が明智光秀を討った山崎の戦いは、まさに情報戦であった。

本能寺の変で明智光秀が織田信長を討ったのは、天正十(一五八二)年六月二日。
この時点で秀吉は中国地方で毛利と戦っており、そのことを知るよしもない。
何しろケータイはもちろん、電報すらない時代のことである。

 

山崎合戦の地 石碑(京都府大山崎町)

武田信玄は自領内に烽火のネットワークを作り、緊急時に情報を伝達していたというが、まだ中国地方は平定の途上にあり、そのようなネットワークを構築することはできなかったであろう。

しかも、この情報を秀吉に伝える主体がいない。
信長とほぼ同時に嫡男の信忠も討たれたため、織田政権の中枢は消滅していた。
柴田勝家や滝川一益は地方でそれぞれの戦闘に当たっていたし、徳川家康は駿府へ逃げ帰るのに必死である。
秀吉に「信長死す」の報を伝えるものは誰もいなかった。
秀吉は意外な形でこの情報を知ることとなる。

光秀は秀吉の動きを牽制すべく、「信長死す」の報を持った使者、原平内を毛利に向けて派遣した。
しかし彼は秀吉軍と毛利軍を間違えて秀吉陣中に忍び込み、捕らえられたのである。

はじめに「信長死す」の報を入手したのは、おそらく原を取り調べた黒田官兵衛であったろう。
さしもの官兵衛もこの情報をどう主君の秀吉に伝えていいか、とまどったものと思われる。

しかしさすがは官兵衛、秀吉にこの情報を伝えたときには、すでに秀吉をどう行動させればよいか思案がまとまっていたようだ。
その証拠に、

「これで未来が開けましたな」

と、余計な一言を付け加えてしまった。
結局秀吉は官兵衛の計画通りに行動し、天下を手にするのであるが、この余計な一言により、官兵衛は秀吉に疎まれることとなるのである。

秀吉はこの情報を毛利に伏せて講和に臨み、無事後顧の憂いを断って中国大返しをはじめる。
六月十一日、尼崎に到達した秀吉は、摂津衆の一人である中川清秀からの書状を受け取り、

「光秀は信長を討ったが首を取るのには失敗した」

という情報を入手し、大情報戦を開始する。それは

「信長は生きてるぞキャンペーン」

であった。

「上様も信忠様も危難を切り抜けられ、膳所(大津市)に下がっておられる。
これに従う福富秀勝は比類なき功績を打ち立てた」

という返書を清秀に出したのである。

この情報は電撃的に畿内に広がった。
光秀には

「信長を討った」

という確信があったが、肝心の信長の首がない。
信長を討ったことを証明することができないのである。

この情報を信じた諸将は、次々に光秀から離れて行った。
筒井順慶は洞ヶ峠を決め込み、娘婿である細川忠興と、その父・幽斎までもが光秀から離反した。

この時点で、山崎の戦いの大勢は決定していた。
戦う前に、情報戦で勝負がついていたのである。

戦争とは常に情報戦であるが、山崎の戦いは特に鮮やかな情報戦であったといえよう。

 

戦国人物伝 豊臣秀吉 (コミック版日本の歴史)

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すぎたとおる

一九七〇年十一月四日生まれ。
東邦大学理学部生物学科卒。
漫画原作者として、「コミック版日本の歴史シリーズ」(ポプラ社)
小説家として「愛の武将 直江兼続」(雷鳥社)
歴史作家として「武田信玄と二十四将」(リイド社)
などの著作がある。

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石垣