すぎたとおるのレキシよもやま話

真説・桶狭間の戦い

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に連載移行しました「レキシよもやま話」から、
毎月1回ほど、おすすめ記事をピックアップしてお届け。
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五月十九日は、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討ち取った日である。
時は永禄三(一五六〇)年。
上洛を目指す(異説あり)今川義元の三万を超える(異説あり)大軍を、織田信長が二千から三千の寡兵で打ち破ったこの戦いであるが、ここまでに二回も「異説あり」を挿入したことからもわかるように、研究者の間では諸説が入り乱れている。

・今川義元は本当に上洛を目指していたのか?

・今川勢は本当に三万を超す大軍だったのか?

・戦場はいったいどこだったのか?

・迂回奇襲だったのか正面攻撃だったのか?

などなど、論点は尽きない。

一般的な桶狭間の戦いの展開については、拙著「コミック版日本の歴史 桶狭間の合戦」(作画やまざきまこと、ポプラ社)をご覧いただくとして、ここでは大胆な新説を提示させていただきたい。

尾州桶狭間合戦(歌川豊宣画)

桶狭間の戦いにおいて勝利の決め手となったのは、信長の情報戦における勝利であったといわれている。
信長は梁田政綱(やなだ まさつな)をはじめとする土豪たちから情報を収集し、義元の本隊の位置を知り、休憩のタイミングを狙って攻撃をかけた。
折からの豪雨も信長軍の動きを隠し、奇襲(あるいは強襲)を成功させた、というのが一般的なストーリーである。
しかし私はこの説に異を唱えたい。

確かに信長は義元の本隊を必死で探しただろうし、情報収集に力を入れたであろう。
その証拠に桶狭間の戦いの戦功第一とされたのは、梁田政綱であった。
が、それはニワトリと卵が逆なのではないかと思うのである。

確かに信長は梁田政綱を戦功第一とした。
しかしそれは「勝利の理由」が必要だったからで、後付けの理由なのではないかと私は考える。

私の説はこうだ。

「追い込まれた信長はヤケクソで出撃し、最初に目に付いた部隊に攻撃をかけたら、たまたま義元本隊で、豪雨のおかげでたまたま奇襲になって、たまたま義元の首が取れたので勝った」

つまり、

「何だかわからないが信長はむちゃくちゃラッキーだった」

説を提示したい。

根拠は何か、と言うよりは、

「他の説の根拠が薄い」

ことが根拠である。

もう一つ根拠がある。
その後、信長が二度と、寡兵で大軍と戦おうとしなかったことである。
一度寡兵で大軍に勝つと、

「一発必中の砲一門は百発一中の砲百門に優る」

とか言って寡兵で奇策を用いて戦いたがるのが日本人の悪癖だが、信長はこの悪癖を持っていなかった。
長篠の戦いなど、三倍の兵力で罠を張って入念にすり潰している。

人は大勝利には理由を求めたがるものである。
しかし

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」

なのではなかろうか。

桶狭間の合戦―歴史を変えた日本の合戦 (コミック版日本の歴史)

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すぎたとおる

一九七〇年十一月四日生まれ。
東邦大学理学部生物学科卒。
漫画原作者として、「コミック版日本の歴史シリーズ」(ポプラ社)
小説家として「愛の武将 直江兼続」(雷鳥社)
歴史作家として「武田信玄と二十四将」(リイド社)
などの著作がある。

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石垣