すぎたとおるのレキシよもやま話

南の忠恒(悪久)

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本日は戦国のDQN(非常識人)四天王、南の忠恒こと島津忠恒(ただつね)の紹介である。
DQN四天王とはいっても、鬼武蔵(森長可)の行動はまあ時代的に許されるし、細川忠興はガラシャが絡まなければそんなにDQNじゃないし、まーくん(伊達政宗)は稚気があるしで、そんなに嫌な奴ではないのだが、悪久(忠恒→家久と改名したが、人格者の叔父と同名なのでこう呼ばれる)はかなり嫌な奴である。
何しろ自分の嫁に「鬼島津ならぬ鬼畜島津」呼ばわりされる始末。
そして呼ばれるだけのことを確かにやっている。

島津忠恒肖像画(尚古集成館蔵)

忠恒は名将、島津義弘の三男である。
長男で嫡男の久保(ひさやす)が人格者で武勇にも優れていたので、

「自分に出番が回ってくることはない」

と考えたのか、酒を呑んで蹴鞠と和歌ばかりしていた。
でも一応

「将来部下を手討ちにするときのために」

と考えていたかどうかは定かではないが、丸目タイ捨流の二級も取っている。

これはのちに、伊集院忠棟を手討ちにするときにとても役立ったようだ。

のんきな日々を送っていた忠恒だったが、転機が訪れる。
久保が病死し、豊臣秀吉が後継者として忠恒を指名してきたのである。
ただし条件があった。
義久の摘女であり、久保の妻であった亀寿(かめじゅ)と結婚することである。

「五才年上のバツイチなんかもらいたくねえよ!」

抵抗する忠恒だったが、義弘に

「廃嫡するぞ」

と脅され、やむを得ずこれを受け入れる。
しかし亀寿とはいっさい同居せず、子供も作ろうとはしなかった。

さて、島津家の家督を相続した(実権は義久にあったが)忠恒は、政務にも熱心に取り組み、慶長の役では八千の兵で数十万ともいわれる明軍を打ち破り、優秀さを見せた。

しかしその一方では、朝鮮に蹴鞠ステージを作らせ、戦のない晴れの日は毎日蹴鞠に明け暮れていたので、

「島津の若殿が愚かなおかげで敵軍からは多数の逃亡者が出て捕虜が増えた」

と朝鮮側に記録されてしまった。

さて、秀吉が死ぬと、忠恒は家康への接近を試みる。
このへんの政治向きがちゃんとできるあたりが鬼武蔵とかより嫌われる理由であろう。

さて、家康に接近するためには、親豊臣の家老、伊集院忠棟が邪魔だった。
ので伏見の島津屋敷に呼び、主君の前ということで刀を置いた忠棟に

「死合いをしようではないか」

と一方的に斬りかかって暗殺。
ぶち切れた子の忠真が反乱を起こし、その反乱を鎮めるのには九ヶ月を要した。
ちなみに忠真はいったん許されるが、後にスキを見て鉄砲で暗殺。

関ヶ原の戦いでは、実父の義弘が

「成り行きで西軍に加わることになった。兵を送ってくれ」

というのを黙殺。
義弘を死地に追い込む。

戦後の交渉では、とにかく責任を他人になすりつけながら(まあ確かに忠恒に責任はないけど)二年も時間稼ぎをし、「六十万石安堵」のお墨付きを得た瞬間ジャンピング土下座。
領土を守り抜いた。
いや政治家としては正しい態度なんだけど、嫌われるのもやんぬるかな。

関ヶ原後の島津は義久派・義弘派・家久(このへんで改名)派にわかれた凄惨な権力闘争の舞台となるが、家久は義久が死に、義弘がボケるのを待って他派の老臣たちを粛正し、権力を一手に握る。

もはや亀寿に遠慮することはない。
大量の側室を囲った家久は大量の子供を生産し、家臣たちに婚姻で押しつけていく。
家久の支配は盤石であった。

晩年には薩摩藩の財政赤字が相当すごいことになっていたが、気にせず畳の上で死ぬ。
享年六十三。
まあ四天王で一番嫌われるのもよくわかる人生であった

あの名将たちの狂気の謎 (中経の文庫)

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すぎたとおる

一九七〇年十一月四日生まれ。
東邦大学理学部生物学科卒。
漫画原作者として、「コミック版日本の歴史シリーズ」(ポプラ社)
小説家として「愛の武将 直江兼続」(雷鳥社)
歴史作家として「武田信玄と二十四将」(リイド社)
などの著作がある。

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石垣