すぎたとおるのレキシよもやま話

「八重の桜」序盤のもう一人の主役

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大河ドラマ「八重の桜」がはじまった。
幕末から明治にかけて活躍した新島八重の生涯を描く今回の大河ドラマは、次期会津藩藩主の松平容保(かたもり)がお国入りするところからはじまる。

幕末会津藩の運命を決した藩主松平容保は、この大河ドラマの序盤のもう一人の主役といえるだろう。

松平容保は天保七(一八三六)年に江戸で生まれた。
父は美濃国高須藩主、松平義建(よしたつ)。
十一才のときに叔父の会津藩八代藩主・松平容敬(かたたか・こちらも高須松平家出身)の養子となり、嘉永五(一八五二)年に家督を継いだ。
会津藩は二代続けて他家からの養子の藩主を迎えたのである。

そしてその翌年、いよいよペリーが来航する。
藩主になったばかりの容保はいきなり幕末の激動の中に放り込まれた。
万延元(一八六〇)年の桜田門外の変のときには、水戸藩討伐に反対し、幕府と水戸藩との間で調停に努めている。

そんな容保の人物を見込んで、幕府は京都守護職への就任を依頼してきた。
当時の京都は、維新を叫びテロを繰り返す志士たちによって治安が悪化しており、そこの治安を守るのは大変な仕事である。
大変なだけでなく金もかかる。
会津藩は幕末諸藩と同じように財政的に苦しく、とても京都守護職の大任に耐えられるとは思えなかった。

容保本人だけでなく西郷頼母(たのも)をはじめとする家老たちも就任に反対、容保は就任を断ろうとする。
しかし政事総裁職の松平春嶽(しゅんがく)がこれを説得した。

「『会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である』これは藩祖・保科正之公が遺された家訓の第一条ですな」

ここで容保が正之の直系であったなら、また違う決断もあり得たのかもしれない。
しかし容保は養子であり、そのことをコンプレックスに思っていた。
養子であるがゆえに、保科正之の子孫以上に子孫らしくふるまわねばならない。
春嶽は容保のその思いを突いた。

京都守護職時代の松平容保(会津若松市所蔵品)

文久二(一八六二)年、松平容保は京都守護職に就任、会津藩兵を率いて上洛する。
京都の治安維持や朝廷との交渉に奔走するなか、江戸から上洛してきた浪士の一隊が会津藩に接触する。
容保はこれを受け入れ、新撰組が結成された。
文久三(一八六三)年、朝廷は公武合体派と尊王攘夷派とで真っ二つに割れていた。
公武合体派(佐幕)は会津、薩摩と組み、尊王攘夷派は長州藩と組んで、京都はまさに一触即発であった。
そんななか容保は孝明天皇のご意志を受け、尊王攘夷派追放のクーデターを遂行する。
この八月十八日の政変によって、尊王攘夷派の公家と長州藩は京都から追放される。
容保はその働きを賞され、天皇から宸翰(しんかん・直筆の手紙)と御製(ぎょせい・自作の和歌)を内密に下賜された。
感激した容保は、それらを小さな竹筒に入れて首からかけ、生涯手放すことはなかった。

慶応三(一八六七)年に大政が奉還されると、それに伴って京都守護職も廃止される。
元将軍となった徳川慶喜に従い、江戸に戻った容保は、会津に帰国、家督を養子の喜徳に譲って謹慎するが、容保に恨みを持つ薩長は容保を許さなかった。
追い詰められた容保はやむを得ず立ち上がり、悲惨な会津戦争となる。

降伏した容保はしばらく鳥取藩に預けられ、東京で蟄居するが、のち許され、明治十三(一八八〇)年に日光東照宮の宮司となる。

亡くなったのは明治二十六(一八九三)年、享年五十九であった。

ちなみにこの容保を主人公にした映画に東映の「徳川一族の崩壊」があるが、ビデオ未発売、上映される機会もほとんどない。
たぶん森田健作が孝明天皇を暗殺するシーンがあるからである。

松平容保は朝敵にあらず(中公文庫)中村彰彦

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石垣