すぎたとおるのレキシよもやま話

「八重の桜」前史 後編

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12月は来年の大河に向けて「八重の桜」前史 前編・後編2回分を掲載!
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さて、寛永二十(一六四三)年に陸奥会津藩二十三万石を引き継いだのが保科正之。
保科(ほしな)姓だが、会津松平家初代である。
幕末に続く会津藩の歴史は彼から始まる。

保科正之は、徳川秀忠の妾腹の子である。
秀忠は正妻のお江に遠慮するあまり、正之をあくまで影の存在とした。
正之は武田信玄の次女である見性院に預けられ、その存在を知るのは幕閣でも数人に限られたという。
やがて正之は信濃高遠藩主・保科正光の養子となる。
そのころ、秀忠の跡を継いで三代将軍となった家光は弟の存在を知り、対面が実現した。

弟である駿河大納言・忠長を自死に追いやった家光は、このもう一人の弟をことのほか可愛がった。
正之もその信頼と愛情に実績で応え、めきめきと頭角を現していく。

そして出羽山形藩二十万石を経て、陸奥会津藩二十三万石藩主となるのである。
藩主としての正之は名君として知られ、同時代の水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政と並び江戸初期の三名君と賞される。

保科正之像(土津神社蔵)

たとえば九十才以上の老人には、身分を問わず、終生一人扶持を支給した。
これが日本初の年金制度であるといわれている。

正之は家光に乞われて四代将軍・家綱の補佐役も務めた。
明暦の大火の際、焼け出された庶民を救済し、焼けた江戸城天守閣の再建を

「その分を江戸の町の再建にあてるべきだ」

と中止させたことでも知られている。

この保科正之が残した家訓十五カ条が残っている。
その第一は
「大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず面々決して従うべからず」

この第一条が幕末会津藩の運命を決めた。

さて、会津松平家は第三代の正容の時に姓を松平に改め、葵の御紋の使用も許される。
それからも会津藩は松平家のものであり続け(正之の直系は断絶)、他の多くの藩と同じように財政危機と藩政改革を繰り返しながら、幕末を迎えた。

第八代・容敬は養子であったが、藩政改革に成功し、幕末会津藩の基礎を築き上げる。
その息子がご存じ第九代・容保公。
幕末の動乱に振り回された悲劇の名君である。

幕府から京都守護職への就任の打診があったとき、容保は乗り気でなかった。
理由は財政である。
動乱の京都で守護職を務めるのには莫大な経費がかかる。

ここで先の第一条が物を言った。
幕府への忠勤こそが第一という家訓は、なまじ養子の息子であった容保を強く縛った。

京都守護職になってからの容保の活躍は、ご存じの通りである。
新撰組を雇用して尊攘派志士を取り締まり、禁門の変をはじめとする数々の戦いをくぐり抜けた。
また最後の将軍慶喜の側近として幕政にも活躍した。

明治維新が成ると、志士たちを弾圧していた会津藩は明確に朝敵とみなされ、奥羽越列藩同盟の中心となって、維新最大の激戦を戦うことになる。
2013年大河の主人公・八重も、自ら銃を手にして戦ったといわれる。

ついに会津藩は降伏し、容保は鳥取藩預かりの禁固刑、会津藩は明治政府の直轄領とされて、会津藩の歴史は終わる。
容保の家系は現在も存続し、福島県知事の松平勇雄などを輩出している。

二回にわたって駆け足で会津藩の歴史を追ってみた。
来年の大河ドラマのガイドとなれば幸いである。

 

保科正之―徳川将軍家を支えた会津藩主 (中公文庫) 中村 彰彦

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石垣