すぎたとおるのレキシよもやま話

日本史最DQN 鬼武蔵

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日本史最強というと、源為朝だったり本多忠勝だったり意見が割れるところだが、日本史最大のDQN(非常識人)と言えばこれはもう決まっている。
鬼武蔵こと森長可(ながよし)だ。
歴史的には「森蘭丸の兄」として知られる武将だが、こいつはマジでヤバイ。

長可は信長の家臣である森可成の次男であったが、13歳の時に父と兄を相次いで失い、家督を相続することになる。

初陣は元亀四(一五七三)年の長島一向一揆。
愛槍の十文字槍「人間無骨」 (このネーミングセンスがもうDQN)を手に一揆衆へ単身襲いかかった 長可は、ばったばったと一揆衆をなぎ倒し、敵兵27人を打ち倒す。
これによって長可をなめていた老臣たちも長可の実力を認めた。

森長可像(常照寺所蔵)

その後も信忠(信長の嫡男)配下の武将として大活躍を続ける。
と言えば聞こえがいいが、常に単身敵陣に突入して殺戮しまくり、あわてて老臣たちが後からおいかけてきてフォローとか、そんなのばっかしであった。
信長にも何度も自重するよう言われているがもちろんスルー。

長可は味方も容赦しない。
関所で「信長さまの命令でここは通せません」という門番を殺害し門に放火して通ったり、橋を渡るときも番人を殺害して通ったりと、鬼武蔵の行く手を阻む者には死あるのみ。
もちろん信長には厳重な抗議が行くわけだが、そこはそれあの蘭丸の兄である。

「長可のすることでは仕方ない」

と、一度も処罰を受けることはなかった。

さて、いよいよ武田家を滅亡させることにした信長は、先鋒に長可を起用する。
長可はすさまじい勢いで武田領の各城を落城させていき、ついに高遠城までたどりついた。

高遠城では城兵も必死で反撃し、激戦となる中、長可は三の丸の屋根に上ると屋根に穴を空け、その隙間に向けて無差別射撃。
もちろん城兵のみならず、老若男女お構いなしである。
屋内の人間を皆殺しにした後は二の丸や本丸に向けて発砲し、城内に突入した信忠軍の手柄を大いに横取りした。

この戦いにおける功績が評価され、長可は信長から北信濃全郡を拝領する。
20万石の大大名である。
しかし北信濃は統治の難しい土地。
さっそく一揆が起こるが、それはむしろ鬼武蔵には大喜びの展開。
八千人の一揆勢に三千人で突撃して撃破、2400人をなで切りにして一揆を鎮めた。

絶調を極める鬼武蔵であったが、ここで起こるのが本能寺の変。
信長亡き今、日頃の恨みを晴らさんとして立ち上がった国人衆相手に、長可は人質を盾にして逃げた。
もちろん安全な場所まで逃げ切ったら、人質は皆殺しである。

旧領の美濃に帰ってくると、周りの旧家臣たちはみんな敵になっていた。
これはこれで鬼武蔵にとってはファイトのわく状況だったらしく、次々と旧家臣の立て籠もる城を潰していく。
具体的には一ヶ月で六個くらい潰したという。
蘭丸の葬式の間も、弔問客に挨拶しながら城攻めを続けたという。

清洲会議の結果秀吉が事実上の織田政権後継者になった。
秀吉は「家康を倒したら遠江と駿河をやる」という条件で長可を部下にし、小牧・長久手の戦いに臨む。

ここでいつものように大暴れしていたら、井伊直政の鉄砲隊に的にされてあえなく死亡。
意外とあっけない最後であった。

確実なところで20歳までに40人以上、生涯で100人以上殺している。
「武器を持った相手に対して火縄銃以下のレベルの武器で殺害した人間」なら間違いなく世界一である。
このコラムでも触れたシモ・ハユハ(ヘイヘ)は優れた狙撃銃とサブマシンガンあっての数である。

ちなみに東のDQN鬼武蔵に対して、北のDQNといわれているのが「まーくん」こと伊達政宗である。

戦国の鬼 森武蔵 /鈴木輝一郎(出版芸術社)

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石垣