すぎたとおるのレキシよもやま話

第14回 諸葛孔明は本当に名軍師か

三国志がブームである。
曹操も関羽も人気だが、やはり日本人の一番人気は諸葛孔明である。
忠義の人であり、名政治家であり、名軍師であったといわれる諸葛孔明。

だがここでちょっと疑問の声をあげたい。
「諸葛孔明って本当に名軍師だったの?」

孔明の軍師としての活躍といえば、まずは赤壁の戦い。
しかし赤壁における孔明の活躍はほぼ演義の創作で、あの戦いを軍師として指揮し、勝利に導いたのは、呉の名軍師、周瑜である。


絶戦三国志赤壁の戦い(竹書房)

劉備の入蜀において軍師として活躍したのは「臥龍・鳳雛」の鳳雛の方、ホウ統であり、孔明は最後の仕上げをしたに過ぎない。

ということで孔明が実際に軍師として活躍したのは、おもに劉備死後のことになる。

まずは益州南部の平定。
孟獲を七度捕らえ七度放った「七縱七禽」が有名だが、要は南方の蛮族である。
平定するのに、大した軍略が必要だったとも思われない。

そして五度にわたった北伐。
これらは結論からいえば、すべて失敗に終わっている。
失敗の理由は明らかである。
孔明が兵站を軽視したからである。

孔明は五度目の北伐で屯田を実施し、長期戦に備えた。
しかし屯田は曹操が兵站を安定させるためにはじめたものであり、曹操を研究していた孔明が知らなかったはずはない。
なのに孔明ともあろうものが「五度目までやらなかった」のである。

屯田を採用しなかった孔明が何をやったかといえば「木牛・流馬」という妙ちきりんな発明品で何とかしようとした。
結局孔明が屯田を実施したことからも、これらの発明がうまくいかなかったのは明らかである。

それどころか、第四次の北伐においては、「無理な兵站計画を立てて失敗し、責任を李厳に押しつける」ことまでしている。
駄目な指揮官の典型である。

駄目な指揮官といえば、馬謖を斬ったのもいただけない。
確かに軍律を破って負けはしたが、次世代の軍師たるべき人材をあっさり斬り捨てるのは、 決して人材豊富とはいいがたい蜀において、いかがなものだろうか。
「馬謖の才能をねたんで粛正した」
はさすがに考えすぎであろうが。

馬謖(肖像)

ねたんでといえば、魏延を冷遇し、いたずらに恨みを買ったのもいただけない。
北伐において魏延が主張し続けた長安急襲策は一度も採用されなかったが、この作戦は韓信大元帥が実際に成功させた例もあり、一度は試してみるべきであった。
「反骨の相」とか、顔で人間を判断する奴にろくな奴はいない。

諸葛孔明が忠義の士であったこと、そして公平無私な人であったことは疑いをまたない。
しかし、その能力には、疑問符をつけざるを得ないのである。
「三国鼎立というアイデアを実現した」
というのも、魯粛の手柄を横取りしたっぽいし。

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すぎたとおる

一九七〇年十一月四日生まれ。
東邦大学理学部生物学科卒。
漫画原作者として、「コミック版日本の歴史シリーズ」(ポプラ社)、小説家として「愛の武将 直江兼続」(雷鳥社)、歴史作家として「武田信玄と二十四将」(リイド社)などの著作がある。

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石垣