すぎたとおるのレキシよもやま話

第12回 律儀? 尻軽? 藤堂高虎

藤堂高虎のイメージは、一般に言ってあまりよろしくない。
彼自身が「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」
と公言し、実際にたびたび主君を変えてきたからである。

藤堂高虎像(個人所蔵)

浅井長政の家臣として武士人生をスタートした高虎は、浅井氏が滅ぶとその旧臣であった阿閉貞征(あつじさだゆき)、磯野員昌(いそのかずまさ)のもとを渡り歩く。
近江を去り、織田信長 の甥である織田信澄に仕えたがすぐにやめ、同じく信長の重臣、羽柴秀吉の弟である羽柴秀長に仕えた。
ここまではぱっとしなかった高虎だがここで活躍し、二万石の大名にまで上り詰める。

秀長の死後は秀長の養子(血縁的には甥)の豊臣秀保に仕えるがこちらも早世、いったんは出家隠居して高野山に上るも、秀吉に呼び戻されて七万石の大名として復帰。
この秀吉がちょうど七人目の主君であるが、高虎の主君変え人生はまだ終わらない。

秀吉の晩年から家康に接近していた高虎は、秀吉の死後、家康方に与して、関ヶ原の戦いで活躍、二十万石の大名となるのである。

関ヶ原合戦屏風(関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵)

高虎が亡くなった寛永七(1630)年には、すでに将軍は三代家光だったので、高虎の主君は合計十名となる。
ちなみに最終的な石高は三十二万石。

さて、こうして駆け足で高虎の主君替え人生を見てみると、あることに気づく。
高虎は、一度たりとも主君を裏切っていないのである。
秀吉から家康への乗り替えも秀吉の死後であるし、そのときそのときの主君には常に忠義を尽くしている。

こんなエピソードがある。
家康が死の床にあったとき、高虎が家康を見舞うと、家康はこうこぼした。
「わしは天台宗じゃがそなたは日蓮宗。心残りは来世でそなたと会えぬことじゃ」
この言葉に感激した高虎は即座に天台宗に改宗。
「これで来世も大御所さまにご奉公かないまする」
と涙したという。

また、こんなエピソードもある。
高虎は二人目の主君である阿閉貞征のもとを刃傷沙汰で退転したのだが、磯野員昌は高虎の実力を認め、八十石で召し抱えた。
感激した高虎は大活躍するが、員昌は信長の命により隠居・追放させられてしまうのである。

やがて高虎は出世し、板島城主となると、員昌の子、右近を千石で召し抱えたのであった。
そもそも戦国時代には、自分を認めてくれない主君を見限り、別の主君につくことは悪いことでも何でもなく、当たり前のことだった。
そんな時代の中、一度たりとも裏切りを働かなかった高虎は、むしろ律儀者・忠義者にカウントされるべきではなかろうか。

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すぎたとおる

一九七〇年十一月四日生まれ。
東邦大学理学部生物学科卒。
漫画原作者として、「コミック版日本の歴史シリーズ」(ポプラ社)、小説家として「愛の武将 直江兼続」(雷鳥社)、歴史作家として「武田信玄と二十四将」(リイド社)などの著作がある。

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石垣