すぎたとおるのレキシよもやま話

第10回 水と戦った勇者たち

7月30日から8月1日にかけて、新潟・福島両県を記録的な豪雨が襲い、最大時で約40万人に避難指示・勧告が出された。
まずは被害に遭われた方にお見舞い申し上げたい。
現場では今も多くの方々が被害の復旧に当たっておいでだが、ここで歴史に残る水との戦いを紹介しておきたい。

山がちな地形を持ち、急峻な河川の多い日本では、昔から水との戦いが続いていた。
スサノオノミコトによるヤマタノオロチ退治の伝説は、治水工事が神話に反映されたものともいわれている。

スサノオノミコト(作:歌川国芳)

歴史好きにとって、治水といえばまず浮かぶのが信玄堤であろう。
武田信玄により作られ、いまも現存する信玄堤は、甲府を水害から守り、安定した新田開発を可能にした。

江戸時代の治水工事といえば、平田靱負ら薩摩義士による宝暦治水が有名である。
宝暦三(1753)年、幕府は薩摩藩に、濃尾地方の木曽川、長良川、揖斐川の三河川の治水事業にあたることを命じた。
これは琉球貿易で力をつけた薩摩への幕府のいやがらせでもあったが、実際に11年にわたって 洪水が頻発していたのである。

責任者となったのは薩摩藩家老・平田靱負であったが、幕府のつきつけた条件は苛烈なものであった。
工事費用の全額負担はもちろんのこと、大工などの専門の職人を雇うことが禁じられたのである。

代わりに動員されたのは薩摩藩士たちであった。
工事の専門家ではない彼らによる工事は失敗が続き、もともと甘い見通しであった工事の見積もりは どんどんふくれあがり、薩摩藩は大坂の豪商に借金を重ねた。

工事は1年3ヶ月におよび、薩摩藩の死者は、病死33名、自殺者(幕府への抗議の切腹)52名におよんだ。
責任者であった平田も藩への責任をとるべ く自害、藩主・島津重年も心労でまもなく病没した。
殉職した平田ら薩摩藩士85名は、現在も海津市の治水神社に祀られている。

近年人気の石田三成も、治水に関するエピソードを残している。
ある年、豪雨のため淀川の堤防が切れ、大坂全体が水没の危機にさらされた。

石田三成(東京大学史料編纂所蔵)

三成はさっそく現場に駆けつけて陣頭指揮を取る。
土嚢の製造が間に合わないと見て取った三成は、米蔵の番人に蔵をすべて解放するよう命じた。
なんと米俵を土嚢の代わりに使おうというのである。

この緊急措置により堤防の決壊箇所は修復され、市内の浸水は防がれた。
無事に豪雨をやり過ごした三成は、今度は付近の住民に土嚢を持って集まるよう命じた。

「土嚢と米俵を交換してよい」と告げると、皆先を争って土嚢と米俵を入れ替えたので、あとは仕上げをして工事完了である。

「どうじゃ、米も無駄にはせぬぞ」

という三成のドヤ顔が浮かぶようである。

現在もなお水と戦い続ける勇者たちを称えようではないか。

———————————————————–
すぎたとおる

一九七〇年十一月四日生まれ。
東邦大学理学部生物学科卒。
漫画原作者として、「コミック版日本の歴史シリーズ」(ポプラ社)、小説家として「愛の武将 直江兼続」(雷鳥社)、歴史作家として「武田信玄と二十四将」(リイド社)などの著作がある。

Facebookで「レキシ堂」を見る

石垣