すぎたとおるのレキシよもやま話

第8回 日本男色文化史

TV局の女子アナが「BL好き」をカミングアウト。
「腐女子」なる言葉も定着し、男色はついに市民権を得た。

いやいや冗談ではない。
古来から日本は男色文化の国だったのである。

そもそも日本に男色文化を持ち込んだのは弘法大師・空海であった。
平安時代、密教とともに持ち込まれた男色は、瞬く間に僧侶のあいだで大流行。
そして貴族のあいだにも流行し、貴族の日記にも男色の記録があったりする。

空海肖像画

やがて世は武士の時代。
武士が仏教文化を取り込んで文化的になっていく過程で、男色文化も武士のあいだに取り込まれていった。

これには当時の結婚制度が一役買っていると思われる。
武士は自分の好きな相手とは結婚することができず、家の決めた相手と結婚しなくてはならなかった。
しかし男色の相手は自由である。
武士にとって「自由恋愛」が許される場は男色にしかなかったのだ。

こうして、「結婚は家のために女とするもの、男色は自分のために男とするもの」という文化が武士階級のあいだにできあがっていったのである。

これにはメリットもあった。
戦場での裏切りは、どちらかの死を意味する。
家臣や同輩とのあいだに生死をかけた信頼関係を樹立するには、やはり肉体関係が一番手っ取り早かったのである。
織田信長と前田利家。
武田信玄と高坂正信。
伊達政宗と片倉小十郎。
いずれも心も体も固く結び合った主従であった。

江戸時代に入ってもこの伝統は続く。
三代将軍家光はガチホモであり、柳生の次男・友矩をことのほか寵愛した。
寵愛のあまり家光は友矩を大名にしようとし、「これでは大目付として示しが付かない」と考えた父・宗矩によって柳生の里に逼塞させられ、そのまま病死する。
十兵衛によって暗殺されたのでは、との説もあるがまあ穿ちすぎであろう。

徳川家光像(金山寺蔵 岡山県立博物館寄託)

しかしこの美しい伝統は、江戸時代後半になると廃れていく。
これは文化の中心が武士から町人や商人に移ったからである。

町人文化的には「ホモ? ないない」という感じであり、むしろ同じ長屋で隣のかーちゃんを醤油のように貸し借りする、乱交文化が盛んであった。

また、初期の吉原は武士のための遊郭であったが、参勤交代で江戸に来た武士が女の味を覚えて帰る、というようなこともあったのであろう。

明治維新とともにこの美しい男色文化は明治新政府の手によって完全に破壊され、キリスト教的な一夫一妻が持ち込まれた。
明治の文学者たちが積極的に「恋愛」という概念を輸入したのも大きかったったのであろう。

しかし今、二次元の世界から、男色文化が再びよみがえろうとしている。

ジーク男色!

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すぎたとおる

一九七〇年十一月四日生まれ。
東邦大学理学部生物学科卒。
漫画原作者として、「コミック版日本の歴史シリーズ」(ポプラ社)、小説家として「愛の武将 直江兼続」(雷鳥社)、歴史作家として「武田信玄と二十四将」(リイド社)などの著作がある。

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石垣