すぎたとおるのレキシよもやま話

第5回 苦労人! 真田信之(信幸)-後編-

さて、いよいよ関ヶ原の戦い。
石田三成の挙兵の報を受けた父・昌幸は、即座に「西軍に付く」と決意、幸村を連れて上田城にこもった。
東軍に残った信幸は当然その忠誠を試されることとなり、幸村のこもる戸石城攻略を命じられる。
幸いにも幸村はあっさり開城、兄弟相討つ事態は避けられた。
信幸は そのまま戸石城の守護を命じられ、心底ほっとしたに違いない。

関ヶ原合戦屏風(関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵)

関ヶ原の戦いは皆様ご存じの通り、西軍の大敗。
昌幸のギャンブルは失敗した。
ここで事前の打ち合わせがあったのかなかったのか、信幸は自らの三万石の加増に替えて、昌幸と幸村の助命を願い出る。
家康は露骨に嫌な顔をしたが、信幸の忠義と武勇は誰もが認めるところであったので、渋々「では 高野山で蟄居」というところで済ませることにした。

ところがここで幸村がだだをこねるのである。
曰く「高野山は女人禁制なので女房を連れていけない」

反逆した父と弟の助命を嘆願するのは、命がけである。
しかもそんなつまらない理由で、配流先を変えてくれなどというのはさらに命がけである。
しかし信幸はやった。
やり遂げた。
「九度山での蟄居」を勝ち取ったのである。

この時期信幸は名前を「信之」に変更する。
真田の嫡子であることを表す「幸」の字を、徳川をはばかったか流罪にした父をはばかったか、「之」に 変えたのである。

この間、九度山で蟄居していた幸村は子供をぼこぼこ作っている。
発言に嘘はなかったのである。
ちなみにその生活費は、信之が藩の金ではなく、自分のポケットマネーから細々と送っていた。
避妊法のなかった昔の話とは言え、大した神経である。

そして再び信之の胃が痛くなる事態がやってくる。
大坂冬の陣である。
昌幸はすでになくなっていたが、もちろん幸村は嬉々として脱走、豊臣軍に加わり、八面六臂の大活躍。
信之は幸村を説得に行くが、もちろん幸村は言うことを聞かない。

夏の陣では信之は病のため出陣していないが、これが神経性胃炎でなかったら何だというのだろうか。
息子たちが「死ねば将軍家に言い訳が立ったのに」と鬼嫁に言われたのはこのときのこと。

やっかいな弟が戦死したことで、ようやく平和な老後が訪れると思ったら、そうはいかなかった。
次男に家督を譲って隠居したのに、すぐに次男は亡くなり、長男の子と次男の子の間で家督相続争いが起きる。
孫同士の争いに心を痛めるまもなく、三代藩主となった幸道(次男の子)がまだ二歳だったの で復帰して藩政を執ることとなる。
この時信之なんと九十三歳。
それからまもなく亡くなったのは、当然の心労であろう。
しかしこれだけ苦労して九十 三歳まで生きたのだから、苦労をしなかったらどれだけ生きたのであろうか。

苦労の甲斐あって松代真田藩は幕末まで続き(直系は残念ながら絶える)、佐久間象山などの人材を輩出するのである。

真田信之―弟・幸村をしのぐ器量を備えた男 (PHP文庫) 川村 真二

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すぎたとおる

一九七〇年十一月四日生まれ。
東邦大学理学部生物学科卒。
漫画原作者として、「コミック版日本の歴史シリーズ」(ポプラ社)、小説家として「愛の武将 直江兼続」(雷鳥社)、歴史作家として「武田信玄と二十四将」(リイド社)などの著作がある。

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石垣