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明治学院大学から高輪泉岳寺へ(4)

電師です。

夜になると、あちらこちらでライトアップ。

12月も1週間過ぎちゃいましたね。

長々と書き連ねてきました
明治学院大学から高輪泉岳寺への訪ね歩きレポートも、今回がラスト!

着きましたよ、高輪泉岳寺です。

境内に入ると、さっそく山門脇には大石内蔵助像が立っていました。

連判状を手に、目力のある眼で遠くの空をにらんでいます。

討ち入りを決意した瞬間なのでしょうか。

おなじみの陣羽織姿ではなく、袴姿なのが印象的でもあります。

山門の裏にまわると、
思わず「おおぉ」となるほど、綺麗な木々の彩りがみごとでした。


泉岳寺は曹洞宗の名刹で、赤穂藩浅野家の菩提寺です。

『忠臣蔵』で有名な、
大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士46士の墓と、
萱野三平、寺坂吉右衛門の供養塔があります。

萱野三平は、父の反対にあい、討ち入りに参加できず自刃。

寺坂吉右衛門は、生き証人として、姿を消しました。

元禄赤穂事件を描いた『忠臣蔵』は、
歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』の通称であり、
講談、演劇、映画、TVなどでも、
江戸時代から今もなお、演じ続けられている作品ですね。

愛されてます。

日本人のDNAを刺激する美学みたいなものがあるのですね、きっと。

第二次世界大戦後のGHQ占領下では、
上演が禁止されたただけに、
やはりそれだけ影響力の大きい作品と思われていたのでしょう。

あと、最近はあまり見かけませんが、
年の瀬になるとテレビでもよくやってましたね。

1度も見たことなかったです。

『忠臣蔵』の話は小説とDVDでしか・・・。

よし、せっかくですので、
『忠臣蔵』の題材となった元禄赤穂事件について、
大筋にふれてみたいと思います。

元禄14(1701)年3月14日、江戸城本丸松の廊下で、
赤穂藩主・浅野長矩が突然、吉良義央(上野介)に斬りかかり負傷させます。

この刃傷沙汰によって浅野長矩は即日切腹。

所領も没収となりました。

浅野の動機は不明なままです。

浅野家家老の大石内蔵助は、浅野家の再興を果たすため、
喧嘩両成敗の処分を望むなど、幕府に嘆願しますが挫折。

いっぽう吉良義央には、おとがめありませんでした。

大石内蔵助、堀部武庸(安兵衛)ら赤穂浪士たちは、
主君の仇討ちと浅野家の名誉回復のため、
吉良義央殺害を計画します。

元禄15(1703)年12月14日深夜、
赤穂浪士47人は江戸本所の吉良邸に乱入。

死闘ののち吉良義央を殺害し、その首をあげました。

赤穂浪士たちは、
米沢藩上杉家(米沢藩4代藩主・上杉綱憲は吉良義央の実子)の討っ手に備えつつ、
吉良邸から泉岳寺まで約12kmの道のりを歩きます。

泉岳寺に到着すると、浅野長矩の墓前に吉良義央の首級をそえ、仇討ちを報告。

そのあと、大目付に自首し、赤穂浪士たちは大名家に預けられました。

幕府より裁定が下り、
元禄16(1703)年2月4日、全員切腹。

ふれるのは、ここまでとします。

というわけで、話は長くなりましたが、
赤穂浪士たちの眠る、その泉岳寺へ参ってます。


首洗い井戸です。

この井戸水で吉良義央の首級をきれいに洗ったといいます。

墓所の入口では48本の線香も販売されていて、
48基ある墓碑に一本ずつ線香をあげることができました。

討ち入りに参加した浪士たちの戒名には、
「刃」と「劔」が入っています。

萱野三平と寺坂吉右衛門には入っていませんでした。

泉岳寺では、討ち入りのあった12月14日と、
切腹した2月4には、毎年法要が行なわれます。

参拝した11月某日は、他に数名の参拝者を見かけるだけでしたが、
境内に展示されていた12月14日「赤穂義士祭」の写真を見ますと、大混雑のようです。

愛されてます。

12月18日には、映画「最後の忠臣蔵」が公開ですね。

生き証人として姿を消した寺坂吉右衛門と、
討入前夜に脱盟した瀬尾孫左衛門の苛酷な半生を
どうみせてくれるのでしょうか。

原作(池宮彰一郎著)も、読み応えのある小説でしたので、
ぜひ観たいと思っています。

泉岳寺を出たあとは品川駅へ向かいながら、
江戸の火消し「め組」の辰五郎の墓がある正覚寺と、
イギリス公使館(幕末、攘夷派志士に2回襲撃された)があった東禅寺にも寄ったりしました。

品川駅へ到着し、この日の訪ね歩きは終了。

では、今日のブログもこのへんで。

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石垣