すぎたとおるのレキシよもやま話

大谷刑部吉継の最期(後編)

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慶長五(1600)年九月十五日、美濃関ヶ原で、西軍・石田三成方(総勢8万4千)と東軍・徳川家康方(総勢7万5千)が対峙。

十万近い軍勢を揃え、万全の陣形を取っても、大谷吉継はなおも不安であった。

吉川秀家の不穏な動き。

三成と島津義弘の不和。

そして、最も重要な松尾山を勝手に抑え、動かない小早川秀秋。

敵は前にばかりいるわけではない。
(中でも、金吾中納言(小早川秀秋)の動きこそ要注意……)

たちこめていた濃霧が薄れていく中、東軍・井伊直政の小隊が、西軍・宇喜多隊に向けて発砲。
関ヶ原の戦いがはじまっ た。

吉継の隊は東軍の藤堂高虎、京極高知らの隊と激戦を繰り広げる。
しかし吉継は全隊を動かすわけにはいかなかった。
(敵は前にばかりいるわけではない)

小早川軍の動きからは目が離せない。

そして正午過ぎ、東軍からの威嚇射撃が松尾山に向けられると、はたして秀秋は東軍に内応すべく、山を下りた。

「だがそれも計算のうち」

吉継は予備隊を動員、小早川隊の動きを押しとどめる。
しかしそのとき!

「脇坂淡路守、裏切り!」

脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら四千二百の西軍諸隊が、大谷隊の側面を衝く。
大谷隊は一気に崩れた。

病に冒された吉継の目はすでに見えない。

だが、長年戦場で過ごした吉継の見えぬ目には、戦況が手に取るように見えていた。

「負けたか」

側近の湯浅五助が返す。

「い、未だ!」

しかし東軍の兵はすでに吉継の輿にまで迫り、輿を担ぐ兵が次々倒れていく。

「もうよい、輿を下ろせ。わしのような者に最後までつきあってくれて、大儀であった」

ついに吉継の輿は動きを止めた。

「皆、逃げるなり降伏するなり、好きにいたせ」

「我ら一人とて逃げたりはいたしませぬ!」

「憎き金吾めに一太刀なりと浴びせてから死にとうござる!」

「……知っての通り、わしは目が見えぬ。お前たちの最後の奉公を見ることができずに死ぬのは口惜しい。皆、わしの前で名乗ってから行け」

吉継の旗本たちは、一人一人吉継の前に立ち、大声で名乗ると、斬り死にすべく敵陣へと走って行った。

「……今の者で最後にてございます」

「そうか。五助、介錯を頼む」

吉継は十文字に腹を掻き切り、五助はその首を何処かへ隠し、自らは討ち死にした。

「三年を出ずして、我この恨みを報ぜん」

最後に吉継は、こう言い残したと伝えられる。

小早川秀秋が変死したのは、その二年後のことであった。

病身の吉継のために大谷隊に参陣していた盟友の平塚為広は、隊が崩れたとき、

「君がため 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」

という歌を吉継に届け、自らは討ち死にした。

吉継は

「契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」

という返歌をしたため、これが辞世の句となった。

 

大谷吉継 (「歴史街道」セレクト)

すぎたとおる一九七〇年十一月四日生まれ。
東邦大学理学部生物学科卒。
漫画原作者として、「コミック版日本の歴史シリーズ」(ポプラ社)
小説家として「愛の武将 直江兼続」(雷鳥社)
歴史作家として「武田信玄と二十四将」(リイド社)
などの著作がある。

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石垣