すぎたとおるのレキシよもやま話

戦国最弱決定戦!

レキシ堂コンシェル(http://rekishido.entacafe.net
に連載移行しました「レキシよもやま話」から、
毎月1回ほど、おすすめ記事をピックアップしてお届け。

「最強の戦国武将は誰か」という問いにはなかなか答えが出ないが、「最弱の戦国武将は誰か」という問いも意外に答えが難しい。
とりあえず候補者は二人いる。

まず大友義統(よしむね)。
父・宗麟(そうりん)の代には九州六カ国にまで版図を広げた大友家であるが、島津に敗れてからは旗色が悪く、しかもこの跡継ぎの義統が「不明懦弱(ふめいだじゃく)」とまでいわれる出来損ないであった。
「不明懦弱」とは、「識見状況判断に欠け弱々しく臆病」との意味である。
そうまでいわれるほどの人物だったのだろうか。

まず、父・宗麟の勧めでキリシタンになるが、秀吉に禁止されるとあっさり棄教する程度には「不明懦弱」である。

また、酒癖が悪く、それによる乱行が多かったことも記録に残っている。

島津が豊後に侵攻してきたときは、居城の府内城を捨てて逃亡。
愛妾を置き忘れてきたことに気づくと、戻るのではなく部下に迎えに行かせる始末。
さらには無事救出してきた部下が、嫌気が差して逐電する事態に。
これはなかなかない。

朝鮮出兵でも小西行長の救援要請を無視して撤退し、秀吉に改易されるというていたらくである。
なるほどこれを超える逸材はなかなか見つからないであろう。

しかし西に義統あれば、東に天庵(てんあん)あり。

小田氏治(うじはる)こと天庵は、関東の名家小田氏最後の当主である。
あだ名は「常陸(茨城県北東部)の不死鳥」。
その名の通り不死鳥の如く何度も蘇った武将である。
天文十七(一五四八)年に父の死に伴い、小田氏の家督を相続すると、まず結城政勝が攻めて来た。
天庵は敗れ、居城の小田城を奪われるが、政勝の後ろ盾であった北条氏康と和解することによって、小田城を無事取り戻した。

現在復元工事中の小田城跡
(茨城県つくば市・日本国指定の史跡)

次に佐竹義昭が攻めて来た。
天庵は自ら出陣するが敗れ、また小田城を逐われた。
なんとか家臣の菅谷政貞が小田城を奪回する。

この時代、関東にいると定期的に上杉謙信が攻めてくる。
もちろん勝てるはずがない。
上杉軍に大敗して小田城を追われるが、謙信に降伏して返してもらった。

まだまだピンチは続く。
今度は正月に連歌の会を開いて油断しているところに佐竹義重が攻めてくる。
小田城を逐われた天庵は、一度は自力で取り返すが、また逐われ、撤退先の土浦城まで落城する。
もはやこれまでかと思われたが、北条氏政と連携、土浦城を奪回した。

天庵はがんばって、佐竹義重の常陸統一を阻止し、小田城奪回まであと一歩と迫る。
しかし、すでに秀吉の北条征伐がはじまっており、小田原城が落城すると、北条方であった天庵は所領をすべて没収される。
晩年は結城秀康の客分として過ごした。

戦国最弱はまあこの二人のどっちかなのだが、武将ファンによる愛され度は天庵が勝ってる感じである。

戦国武将ビジュアルプロフィール200 完全保存版

すぎたとおる一九七〇年十一月四日生まれ。
東邦大学理学部生物学科卒。
漫画原作者として、「コミック版日本の歴史シリーズ」(ポプラ社)
小説家として「愛の武将 直江兼続」(雷鳥社)
歴史作家として「武田信玄と二十四将」(リイド社)
などの著作がある。

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石垣